第一部 ジェイムズとフッサール

第一章 ジェイムズ経験論の一考察

Ⅰ ジェイムズ経験論と現象学

 私がいう「ジェイムズ経験論」とは、アメリカの思想家ウイリアム・ジェイムズによっていろいろな時期に述べられた様々な思想の総称である。今のところ、この名称は私が一方的に命名したものであり、彼の哲学の代名詞として一般的に通用していないのであるが、私があえてこの名称でもって彼の思想を浮きぼりにしようとしたのには、三つの理由があげられる。
 一つは、後に示すように彼はいくつかの考え方を提唱しているのであるが、自らは常に経験論者としての立場を固持していることである。
 二つは、とはいえジェイムズ自身の理解する「経験論」はこれまでの伝統的経験論とは少し違った鬼子的性格をもつが故に彼固有の経験論となり、しかもそれが二元論的思考に眩惑される近代の哲学的諸問題に最も応えてくれている事実を私自身が強調したいことである。
 そして最後は、ジェイムズといえば一般にはプラグマティストあるいはジェイムズ─ランゲ情緒説
(1)<以下、注は本章の末尾にて説明する>を唱えた心理学者として知られているが、彼自身の主張はそれ以上の思想的はば広さと深みをもっていることである。 事実、R・B・ペリーは彼のプラグマティズムが彼の思想構成上においては単なる「方法」でしかなく、彼の別の主張、すなわち根本的経験論や多元論をもプラグマティズムと同等の価値をもつ思想構成要素として認めているし、またF・C・S・シラーにいたっては、プラグマティズムの他にさらにこまかく、ジェイムズの思想的特徴として、善と有限論、ヒューマニズム、パーソナル・アイデアリズム、多元論、根本的経験論、主意主義、神人同形同性論、ブリッティシズム、ウィッティシズムと実に十項目をも指摘している。(2)
 文字通り、多元論的に主張するジェイムズなのではあるが、そのうちの何が彼の基本思想であるのかについての判断は解釈家の「気質」に大いに左右されるであろう。私がジェイムズに興味をもったのは、御多分にもれず社会思想として語られる彼のプラグマティズムからであるが、彼の思想を本格的に研究しだしてからは、「根本的経験論」についての考え方がジェイムズの思想の根底にあるとの認識をもつようになり、その結果、彼の種々の主張を総合する代名詞としても「ジェイムズ経験論」という名称がより適切であると思えたのである。それ故に「ジェイムズ経験論」とは、狭義においては「根本的経験論」を意味するのであるが、広義においてはその考え方を含む他のすべてのジェイムズの考え方の総称ともなったのである。
 とはいえ「ジェイムズ経験論」とは、確かに総称でもあるが、同時にまた仮称でもある。否、あくまでも仮称であるとされねばならないのであって、固有名詞の如くに名づけられ、後に示すように、「悪い主知主義」に陥って彼の哲学のイメージが固定されてしまうと、それはジェイムズ自身の哲学的信条に反することになってしまうだろう。「ジェイムズ経験論」はこれからも幾様にも変様しなければならないし、変様することによって豊富な実在的ディテールを加味していく性格の仮称であってもらいたいのである。
 もし独りよがりの人間によって「ジェイムズ経験論」がかくかくしかじかのものであると断定されたとしよう。実はその断定によって彼は「ジェイムズ経験論」の本質的な部分を見損なってしまっているのかもしれないのである。(本書の兄貴分たる拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』は多分にそのような独善によって成り立っているきらいがあると私は反省している。)
 実は私がここで言いわけめいた理屈をこねまわしているのも、本章が「ジェイムズ経験論の現象学的解釈」という隠れたテーマをもっているからである。その意味で「ジェイムズ経験論」がジェイムズの哲学の総称でもあり仮称でもあると言っておいた方が、たとえばF・C・S・シラーの十項目に新たに「現象学」の一項目を付加しても許されるからである。地下のジェイムズにしてみれば、己れのアルケーに従って哲学を展開したのに、後の世の人々にそれが「現象学」という鋳型にはめられる恩恵に苦笑しているかもしれない。私自身、ジェイムズの代弁ができる資格などないのであるが、あえて彼の立場に立って言わせてもらえば、この事実に対して、彼は次のように言ったであろう。
 「私の主張が現象学的であるとする諸君の考え方は間違っていないかもしれない。しかし私を現象学者であると見なしたならば、それは悪い主知主義に侵されたせいだろうよ」と。この「悪い主知主義」とはジェイムズの思想上の反面教師として登場するきわめて重要な概念である。彼の言葉に従えば、それは「名づけられた事実からその名前の定義が積極的に含みえないものを除去するものとして名前をとりあつかうこと」
(3)として定義されている。
 それ故にジェイムズ自身の考え方からすれば、一人の人間の特性を指し示すのに、ただ単に現象学者と言ったラベルをつけて終えてしまうのは、まさにその悪い主知主義の態度のあらわれ以外のなにものでもなかったのである。またそれによって、ジェイムズはそのすべてが現象学的ではない事実のもつ豊饒さに対してわれわれが盲目になってしまうことをなによりも恐れていたのである。
 そもそも現象学と言えども、ジェイムズにとっては一つの学説でしかないのであり、所詮それは「われわれが落ち着くことのできる謎をとく道具になるのであって答えになるのではな」
(4)かったのである。さすれば彼の想像上のこのコメントは寛容であるというよりは、ジェイムズ自身の一つのビジョンのあらわれであるとも言えようか。
 しかしながら、いずれにしても、ジェイムズ経験論は現象学と接点をもつと言われだしているのは最近の哲学的動向のまぎれもない事実である。これについてはH・スピーゲルバーグの『現象学的運動』(フェノメノロギカ5/6)に詳しく書かれているのであるが、フッサールが『論理学研究』や『ヨーロッパの学問の危機と超越論的現象学』等においてジェイムズに言及していたところから
(5)、人々がジェイムズに着目し、主として彼の著『心理学原理』の再評価が始まったことに起因するだろう。たとえばその研究者の一人であるB・ウィルシャイアーは、はっきりと「彼(ジェイムズ)は一人の純粋な機能主義者でも、一人の内観主義者でも、一人の行動主義者でもない。もし唯一言える人とするならば、彼は一人のパイオニヤ的現象学者である」(6)と明言したりしているのである。
 たしかに、「ジェイムズ・ルネッサンス」
(7)と言われるこの哲学的機運は、ジェイムズ研究家にとっては喜ばしい限りであろうが、そうなってくると、私にもジェイムズ経験論と現象学との接点ないしは類似性とはいかなるものなのかを知的に取り扱ってみたいとする哲学者的詮索家のどうしようもない性癖が頭をもたげてくるのである。
 ジェイムズによれば、そう言った性癖は「われわれの精神的習慣」
(8)のなせるわざでしかないのであり、それでもってなにもかもが知的に解明できると期待してはならないだろう。それ故にわれわれはこの「知的な取り扱い」に際してはあくまでも「乞う者」(9)であるとの立場を堅持して事にあたらねばならないだろう。
 ただ、本章では、前述の「ジェイムズ・ルネッサンス」の機運があるということを念頭におきつつも、論述の展開の仕方としては、全くジェイムズのサイドにたった考察を行っていこうかと思う。すなわち、以前に著した『ジェイムズ経験論の諸問題』を一度解体し、現在の私の視座に立ってジェイムズの一つの考え方を浮きぼりにしようと思うのである。その結果、ジェイムズはプラグマティストとしては過去の人間になったと決めつけた私の主知主義的態度に一つの楔が打ちつけられればありがたいと思うのであるが。

Ⅱ ジェイムズの実在観

 さて、ここで思いだしてもらいたいのは、前述のジェイムズのいうところの「悪い主知主義(vicious intellectualism)」なるテーゼである。周知の如く、ジェイムズは自著のいたるところで主知主義を批判している。主としてそれは主知主義が人間的生の横溢した流れのもつ意味と価値を軽視したり否定したりしていると見るジェイムズの主意主義的気質に基づいているのであるが、この悪い主知主義の例は論理ぎらいのジェイムズが必死になって論理的反芻を行った一例とされている。
(10) 
 ところで、ジェイムズは別の箇所でも悪い主知主義のテーゼを次のようにも述べている。すなわち「概念はその概念の定義に含まれないすべてのものを、その概念の意味によって考えられた実在から除去する」
(11)なるテーゼをである。先のテーゼと比べた場合、後者は「名前」のかわりに「概念」が、「事実」のかわりに「実在」が使われているだけで、彼の言わんとしている趣旨はほとんど同じである。いいかえればジェイムズは「名前」と「概念」、「事実」と「実在」とを同じものとして取り扱っていることになる。この故をもってしても、われわれは少なくともジェイムズが論理学者ではない証左をみるのであるが、そのことはジェイムズにとって大して重要な事柄ではない。それのみか、彼自身は直接には述べていないので勝手な推測になるのであるが、ここでわれわれが「概念」という言葉を使わずに、伝統的経験論者の意味する「観念」や「知覚」ならば、それらの言葉を使って同じテーゼを展開したとしても、ジェイムズはそれを許してくれただろうと私は思う。
 これは何を意味するかと言えば、論理的厳密さに問題があったとしても、ジェイムズの場合は「ビジョン」の方がより重視されていたということである。
(12) それ故に、われわれにはこれらのテーゼによって、ジェイムズが何を言わんとしていたのか、いいかえればその「ねらい」とするところのものを把握することの方が、より重要であったし、またジェイムズ的でもあったのである。実際のところ、先に述べた如く私にはこれらのテーゼがジェイムズの主知主義批判のために提言されているという以上に、彼の様々な考え方を包摂させる認識論的な基本姿勢を示しているように思える。すなわち、私はこれらのテーゼが単に論理学における一つの「きまり」を述べたものでしかないという風にのみ片づけられてはならないのであって、ジェイムズの一つの認識論的ビジョンの定位として機能していたと見なければならないと思うのである。
 それでは、これらのテーゼによってジェイムズは何を意図していたのか。われわれはその具体的省察を行わねばならない。さしあたりここでは後者のテーゼを中心に、彼の「概念」観を吟味することから始めよう。
 ジェイムズにとっては、概念は実在そのものではなかった。またその部分でもなく、いわば「実在の上に写されたノート、風景画」
(13)のようなものであった。その起源について言えば、それはわれわれの知性によって感覚的な「具体的連続体から切りとられ抽出された何(What)のあつまり」(14)であり、その特性としては、たしかに自己充足的であるのだが、それだけに同じ意味をもちつづけねばならず、たとえば円は常に円を意味しつづけなければならないという意味での自己同一性をもっていた。それ故に「概念的世界においては連続体は不可能であり」(15)、そのもとでは当然生の本質が把握されえなくなり、従って概念は「結局、指示的であるにすぎず」(16)、われわれの生の「目的論的道具」(17)として位置づけられてのみ価値をもつものでしかなかったのである。
 このようにジェイムズの概念に対する考え方はかなり割りきっている。しかし、どちらかといえばこの考え方は経験論の立場に立脚しているので、合理論の立場からの反論が当然予想される相対性を免れえないのであるが、このような「概念」観を通して、そしてそれに基づく前述のテーゼから、ジェイムズが最も問いかけたかったのは「実在とは何か」であったという点をわれわれは見逃してはならない。実にこの点にこそジェイムズのビジョンが確立される第一歩があったのである。
 これまでの彼の「概念」観から、まずわれわれは概念そのものは実在ではなく実在の象徴でしかないとジェイムズが考えていたと察知できる。なぜならば、拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』の第二章、第五節であきらかにしたように、ジェイムズにとって「実在」とは生の流れに即応する「感じ」に還元されているからである。
 そうはいってもジェイムズは概念をトータルには否定しているわけではなく、主知主義の一機能としての概念の働きを否定しているのであって、われわれの生の目的論的道具として機能している場合は、概念の存在意味を認めているのである。ただし、その場合でも概念はジェイムズによって解釈しなおされ、「知覚から作られ、知覚の部分から蒸溜された概念が再び知覚と一致し、その知覚的世界と結びつい」
(18)たときにのみと限られている。従って概念は、スピノザの言うように「永遠の相のもとに」実在するものではなくなり、知覚に影響され、たえず変化しうるものと限定されているので、ジェイムズの場合は、合理論者の考えに見られるように概念が自己充足性を求め自己同一性を保つことによって静的な存在性を確保しつづけると彼によってうけとられる以上、真の意味で概念は「実在的」でありうることはなかったのである。
 この点を手がかりにして、今度は彼の「実在」観を見ていくとしよう。その場合彼に従って概念が知覚と結びついて「実在的」になったとしよう。しかし、それは当該概念の意味によって考えられ、従って感じられた実在性についてのみ言及しているわけではない。むしろ「実在性」そのものについて考えるのならば、明確な知覚に結びつかず概念としても確定されえないところの、従って主知主義によって見落された素材のもつ「実在性」こそ真のそれであるとジェイムズは考えているのである。
 ただしそのことによって、われわれは前者の実在性と後者のそれとが全く異質のものであると考えてならない。それらは同一の実在性としてあるのであるが、言ってみれば、後者の実在性が前者のそれと比べ実在性の大部分を占めている、あるいは前者のそれの基底部分となっているとの考えからジェイムズはそれを真の実在性であると言っているにすぎないのである。それでは主知主義による概念作用によって見落され切り捨てられた実在とは何であるのか。またそれはどのようにして獲得されるのであろうか。この点がわれわれの次に知りたいところとなる。
 もっとも、厳密に言えば、概念作用によって見落され切り捨てられたものが、はじめから顕在的に実在感をもっているというわけではない。従って、実在的なものはなんらかの作用によって実在性をもつようになったものなのである。その作用がジェイムズの理解するような知覚から蒸溜された概念のそれではなく、いわんやカントの言うカテゴリーとしての概念のそれでない以上、実在性をもたらすものは、知覚作用そのものであるということになる。
 それでは知覚とは何か。われわれはジェイムズの「実在」観を理解するにあたり、またもやその予備工作として彼の「知覚」観を理解しなければならなくなる。概念との対比でとらえるならば、ジェイムズにとっては、もともと「概念と知覚は同じ種類の素材からつくられている」
(19)ものとしてあった。その素材とは、言うまでもなく、後においてわれわれが実在そのものであるとしてジェイムズによって提言される「経験一般」あるいは「純粋経験」である。にもかかわらず、ジェイムズは他方ではこれら二つを区別して考えざるをえない。それは何故か。ジェイムズからすれば「知覚は連続的であり、概念は不連続的である」(20)とされるからなのである。
 ここからあきらかにされるのは、ジェイムズが本来、実在的なものを連続体として考えているという点であろう。一般的に言って、そのことが直ちに実在を提供する素材をも連続体と見ているということになるかどうかの判断は、慎重さを要するのであるが(なぜならば、あいかわらずわれわれには二元論的思考法がとりついているから)、少なくともジェイムズの純粋経験説に賛同するならば、実在的なものとその素材との異質性は強調されていない。ともかくも、ジェイムズにとっては、概念の不連続性という特性は決して実在性をもたらすのではなく、実在を象徴化たらしめる働きをするにすぎない。いいかえれば対象の概念的理解は実在の象徴の理解でしかなかったのである。
 そこで、知覚ならば実在性を理解できるのかということになる。これもジェイムズに即して厳密に言うならば、知覚は実在性を理解するのではない。知覚は実在性とともにあるということで、実在的なものを可能にしているのである。ジェイムズが知覚の連続性をそれの特性とするのは、この考え方と関連している。私をして言わせれば、知覚が連続しているとは、いいかえれば知覚が流れているとは現象するところのものをそのありのままの姿において記述しているの意である。
 ただし、この表現は誤解を与えるので説明を要する。私はこの表現において、そこにおいて働く心的機能が模写するだけの能力しかないと言っているのでもなければ、記述する主体を実体のように想定しているのでもない。ありのままの姿における記述とは、われわれの心的機能が認識作用を起こしているというただそれだけのことを意味しているにすぎない。従って記述しているとは単なる事実の察知である以上に、認識の目的をもって対象への注意を向けている心的状態にあるの意である。
 その意味では、ジェイムズにとれば「いやしくも対象として見えるという単なる事実は実在を構成するに十分ではない」のであり、「対象は単に見えるばかりではなく、興味深く且つ重要に見えなければならな」
(21)かったのである。
 このように実在はわれわれの注意とともに構成され経過するのであるが、そうかと言って、注意を向けられた対象が等質的に実在性を保つわけではないのである。というのは、たしかに対象はわれわれの注意が向けられている限りにおいて実在性をもちうるのであるが、そのわれわれの注意はその方向性において一定しているわけでもなければ、対象のすべてを一挙に、そして等質的にとらえているわけでもないからである。いわば注意の存在様態が異なる以上、それをうけて成立する実在的対象も当然可変的であり、万華鏡の如くに境界線もなき領域へと関わっていくのである。ここにわれわれはジェイムズの「実在」観の一つのたしかな特徴を見ることができるのである。
 次にもう一つの視座から、ジェイムズの「実在」観を見てみよう。すなわち「実在とは何か」の問題は、ジェイムズにとっては、決して主知主義的なそれではなく、主意主義的なそれであるということである。いいかえれば理論的な課題ではなく実践的な課題なのである。この理由については、実在性が概念作用によってもたらされえないで、流れる知覚の作用によってもたらされるとする彼の主張からもあきらかにされるのであるが、この場合でも彼の「知覚」観は彼独特のものであることに注意せねばならない。
 というのは、たいていの「知覚の哲学」者は実在の中身を実在の知覚とする傾向があるのであるが、その際それをありのままの事実としてすなおに認めず、途中で主知主義的になり、観念という名の記号を用いて実在を理解しようとしていることをジェイムズは見抜き、それに対し批判的見解を展開しているからである。いうまでもなく、ここでジェイムズの念頭にあったのはロック、ヒューム、バークレー等の伝統的経験論者の考えであり、ジェイムズは彼らの認識論的基礎である「観念」、「印象」、「感覚的諸性質」に知覚の連続性を断つ主知主義の隠された働きを見いだしていたが故に、知覚という言葉に対しても慎重であったのである。
 ジェイムズによれば、彼らの考え方では知覚が連続的であるとは言われえない。知覚が連続的であるためには、知覚するものの感覚的能動性に依拠しなければならない。それ故に実在を実在の感じと同じであるとするまでの根源的事実に戻らねばならない。一般にわれわれは感覚や知覚のもつ本性的な受動性を認めたくもなるものだが、ジェイムズは、いわばそれをも飛びこえた形で、感覚を能動的なものとしてとらえようとするのである。感覚的能動性とは、一見、矛盾しているようであるし、ジェイムズ自身もこういった言いまわし方はしていない。しかし、私はジェイムズが主知主義的態度を放棄するという大胆な仮説を提唱する限り、この言葉は生きてくると思う。そして主知主義的態度を放棄した上で「実在とは何か」をあきらかにすること、これがジェイムズのねらいではなかったのかと考えたいのである。
 もとよりここから生まれてくるのは実践的態度、すなわち主意主義的態度であるわけだが、そうかと言って、この態度がジェイムズの言う「かたい心(tough mind)」のもとには必ずしもないと思われる。
(22)というのは主知主義的態度を放棄するということは、どんな形態であれ、対象としての存在の定位性を認めないということであり、少なくともそれを前提にして実践的態度をとることではないからである。その意味で、ジェイムズにとれば、実在とはあらかじめ単に存在しているものの、すなわち自然科学的事実として認められているもの、ないしはそれについての存在性では決してなかったのである。実在が実在の感じであるという場合、われわれはこういった考え方のもとに理解すべきであり、従って感じといっても、触発されておこるものではなく、われわれが真接体験する生の響きを意味しているものだと言ってよいだろう。

Ⅲ ジェイムズの認識論の要石としての辺縁理論

 さて、ジェイムズの「実在」観の追求は様々な視座からのアプローチができるので、一言では説明しきれないもどかしさを思えさせるのであるが、ともかく、ここでは、ジェイムズにとっての実在が感じであるという点、少なくとも単なる存在物(entity)ではないという点を私は強調したいと思う。それでは、仮にそうだとすると、哲学的常識に対する一種の反逆とも見えるジェイムズのこの考え方は一体どこに起因するのであろうか。この点をあきらかにするのが次のわれわれのテーマである。
 焦点をはっきりさせるために、われわれは再び、ジェイムズの言う「悪い主知主義」の例に話を戻そう。このテーゼは、直接的には、主知主義者の考え方に対する批判であるわけだが、内容的には、概念や名前の定義に含まれないものがもつ存在の意味や価値の積極的擁護であることは言うまでもない。主知主義者にすれば概念や名前はもともと自己充足的なものであると見ているが故に、ジェイムズの考える「概念や名前の定義に含まれないもの」の存在が可能であるとは思ってもいない。それ故彼らにはこのテーゼはピントはずれの批判であるとしてしか思われないのであるが、しかしジェイムズにしてみれば、自身が徹底した経験論者であり心理学者でもあるという自負が、このテーゼを成りたたしめる根拠を提供していたのである。
 というのは、ジェイムズには事実のもつ重みとか豊饒さを素直に認める心があったからであり、それ故に彼は概念や名前はたかだかそれの象徴ないしは記号にすぎないと抵抗なく見なおすことができたからである。この点彼はイギリス経験論の系譜にある思想家であると言えるだろう。さらに特筆すべきなのは彼の心理学的能力のたしかなる発露として、概念や名前はわれわれの感覚的諸心像の代名詞であるにすぎないと極論され、そしてたかだかそれら諸心像が明確な形をとったものにすぎないとされるまでに理解され説明されている点である。さすれば、われわれがジェイムズのこの考え方に即するとするならば、彼の言う「概念や名前の定義に含まれないもの」も一つの実在的なものとして浮きぼりにされてくる過程を避けて論じることができなくなってくるのである。くりかえすが、この要請は実在の問題が知覚ないしは感じの世界の中でのみ語られるという条件のもとでなりたっていることは忘れられてはならないが。
 さて、この概念や名前の定義に含まれないもの、いいかえれば「あいまいなもの」
(23)を積極的に擁護するにあたり、ジェイムズは確固たる認識論的根拠をもっていなければならないだろう。たとえば彼が「名づけられないということは存在することと矛盾しない」(24)というためには、「名づけられるもの」と同等の存在根拠をもつ「名づけられないもの」の存在証明をせねばならなくなるだろう。ジェイムズはそれを行っているのだろうか。然り。E・B・マクギルベリーをして言わしめれば、ここでジェイムズは「論理学への最も輝しく大いなる貢献」(25)をしているのである。すなわち、ジェイムズはかの有名な「辺縁(fringe)」の考え方を提唱し、それをもって彼の認識論の要石としたのである。以下、私はその「辺縁理論」についてジェイムズの言葉に沿って説明し、その実態をあきらかにしていこうと思う。
 まず語源的にあきらかにすれば、原語のfringeとは額に垂れた前髪のことであり、そこから縁につけられた総を意味するようになった。いずれもそれらはわれわれが最初に注意を向けやすい核としての対象ではないが、その対象に属すると見られ、且つその対象をきわだたせる働きをする。
(26)ジェイムズはそのfringeのもつ役割と同じものをわれわれの心的構造の中に見いだし、それを「われわれの考えに対するかすかな脳髄─過程の影響」(27)としてうけとり、これまた比喩的に「心的上音(psychic overtone)」と称したりもする。いわばfringeなる言葉を彼固有の心理学的用語としたのである。
 この時点でジェイムズがfringe(以後、辺縁という)なるものを具体的にどのようなものであると考えていたかと言うと、おそらくそれは意識あるいは感じの一種であったと私には思われる。実際のところ、その意味するところのものが辺縁意識であれ、辺縁の感じであれ、この言葉が心理学的用語としての市民権をえているかどうかは大いに問題がある(もっとも、拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』では私はこの言葉を心理学的用語であると見なしてはいたが)。というのはこの辺縁理論では意識されざる意識、感じられざる感じというものが、はたして意識あるいは感じと言えるのであろうかなる心理学上の重要な疑義が生じてくるからである。しかしそのような詮索は、まさにジェイムズの言う悪い主知主義に惑わされた証左であるので、それよりも、われわれはさらにすすんだ辺縁理論の考察を続ける必要があるだろう。
 ジェイムズは辺縁の意識(あるいは感じ)の存在を強調することによって何が言いたかったのであろうか。われわれが最初に理解できるのは、ジェイムズが「われわれの心的生活においてあいまいであるものをその正当な位置へ復権すること」
(28)によって、悪い主知主義が犯した過ちを正そうとしたのではなかったかという点である。俗な理解をすれば、月の暈も月のうちに入っているのだから忘れてもらっては困ると言った具合にである。
 一般的に言えば、一つの事象を理解し説明するにあたっては、その「明確なもの」のみをとりあげるのでは不充分であり、「あいまいなもの」をも考慮に入れなければ、必要かつ十分なる理解や説明にならないということであろう。この時点でわれわれはジェイムズが事象の必要かつ十分なる理解、すなわちチョムスキー流に言うならば、単なる表層部分の理解だけでなく深層部分の理解をも求めるために、辺縁理論をうちだしたとも理解できよう。
 しかしそのようにとらえると、われわれは、たとえば月を理解し説明するには明確な姿をとる月の内側が月の本質的なものとしてあり、あいまいな姿をとる月の包暈はその派生したものであるとの視座に立ちがちである。そうなると包暈の理解は十分条件であるとされるようになる。たしかに物理的事実としての月の理解においては、それは正しいだろう。従って、原義的な意味あいでの辺縁(ないしは包暈)の意味構造を素直に応用したものであるのなら、そのような理解の仕方も正しいだろう。
 だがもしジェイムズの辺縁理論がそのような類の比喩としてあるとするならば、この理論はかくも現代的意味をもたなかっただろう。なぜならば、もしそうだったとするならば、この理論は主知主義的理論の焼きなおしであり、それを補強するものでしかないからである。
 ジェイムズがこの理論を提唱したのは別の意図からなのである。ここで私は彼の辺縁理論を説明するのに、「明確なもの」、「あいまいなもの」という如くどちらかというと抽象的な言葉を使ってきたことを思いだしてもらいたい。このとき「明確なもの」と「あいまいなもの」とはいかなる意味において使われていたのか。もとよりそう命名される源となるのは心像ではあるにしても、それが明確であるから本質的であり、あいまいであるから非本質的であるという意味で使われていたのではないことは言われるまでもない。
 ジェイムズにしてみれば、「明確なもの」とは、たまたまわれわれの注意がそこに向けられ、その事実を焦点的対象として見ている部分でしかないのである。従ってわれわれの注意が「あいまいなもの」に移行することは一つの経験の流れの当然の結果としてありうるのであり、そのとき「あいまいなもの」はただちに「明確なもの」になるのである。従ってここまでの段階においては、われわれは「明確なもの」が「あいまいなもの」に、あるいはその逆に、移行するのは、いわば信号機の青が赤に変わるようなものでしかないという風に理解した方がよいだろう。その意味ではこの段階では「はいずりまわる経験論」として批判された考え方なのであるが、その場合でも、ただ単にはいずりまわっているのではなく、なんらかの意図をもった統一化作用をもってはいずりまわっているのである。
 言うまでもなく単にこれだけの例証によって「あいまいなもの」を復権させるにはあまりにも短絡的である。というのは「明確なもの」にしても、「あいまいなもの」にしてもそれらをそう呼ばせしめ区別させる要因なるものが、われわれの心的構造においてか、あるいは対象の性格においてか存在していて、そのためにわれわれが二つを区別して考えているとも言えるからである。
 こういう疑問の提出に際しても、ジェイムズの言うように、われわれの主知主義的精神のなせるわざとして歯牙にもかけないとなると、それこそ「はいずりまわる経験論」の悪しき独りよがりの世界にわざわいされかねないだろう。実際のところ、ジェイムズも主知主義的ではないにしても、こういった疑問に対しても彼なりの論理を展開していたのである。すなわち再三再四くりかえすように、主知主義的態度を放棄する中で、「明確なもの」と「あいまいなもの」という区別された二対象をとらえたのである。
このとき主知主義的態度の放棄によって構成される世界とは何であるのか。私が以前使った言葉をそのまま使えば、それは「われが思考しているという事実は決してわれわれの出あう最初の事実ではない。われわれにとっての最初の事実とは一連の思考が進行しているということである。」なる考え方が成立する世界であった。いいかえれば「I think」の世界ではなく、「it thinks」
(29
の世界であったのである。
 このような世界にあってこそ、前述の「明確なもの」とはわれわれの一連の思考過程の中で、注意が向けられた焦点的対象にすぎず、「あいまいなもの」も同一の過程にある流れの部分であることが唱われてくるのである。すなわち「明確なもの」は一連の思考過程の中の実質的部分として機能し、「あいまいなもの」は名づけられるまでにいたらぬくらいの推移的部分として機能しているとされたのである。

Ⅳ 辺縁理論のもたらすもの

 以上の如く、主知主義的態度の放棄の状態で「あいまいなもの」について考えていくと、ジェイムズ経験論の要石となるいくつかの「特徴」が見えてくるのである。以下、私はそれらについて概説していこう。
 一つは、「明確なもの」と「あいまいなもの」とが同じ性質から成りたっていることの帰結として、「あいまいなもの」は二つあるいはそれ以上の「明確なもの」を結びつけるところの媒介的な役割を果たしているという点である。
(30)それのみか、「あいまいなもの」こそ知覚を連続的に流れさせ、従って経験の連続性を保証するのである。それはジェイムズが辺縁について「継起的諸心像の相互の親近感ないしは共属感及びその主要題目(main topic)の連続感」(31)と考えているところからも察知できるのである。
 この論理的帰結として、ジェイムズが「根本的経験論」の一般的結論として述べたように、「なんらの外的超経験的連続物を必要としないでも、それ自身連結、連続せる構造」
(32)をもった世界が開けてくるのである。そうなると、その世界はわれわれに対してあるよそよそしい世界ではなく、われわれあるいはわれわれとともにある実在的世界となってくるのである。
 二つは、「あいまいなもの」が「明確なもの」の土台となっているという考え方である。前述の特徴の場合においては、「あいまいなもの」が「明確なもの」から派生したものであり、「明確なもの」に従属しているとの観が依然としてぬぐいきれないのであるが、これはわれわれの心的構造の錯誤以外のなにものでもない。「明確なもの」がわれわれの注意の焦点とされてされているからといって、それが対象の全構造を露呈しているわけではない。「明確なもの」とは、いわば水面にあらわれた氷の部分のようなものであり、「あいまいなもの」は水面下の氷のように、われわれには見えないけれども、全構造の大部分を占めているのである。
 そうなると、われわれは次のように言えまいか。辺縁として機能するその「あいまいなもの」を解きあかすことこそ、「明確なもの」を含む対象やその意味までも知ることになるという風にである。もっとも、ここまで言いきると、「明確なもの」は逆に「あいまいなもの」に全く依存すると曲解されかねなくなるので、私は次のように言い直すに留めよう。すなわちわれわれの経験においては「明確なもの」は、ただそれだけによって孤立的に考えられるのではなく、「あいまいなもの」なる辺縁をもつことにより考えられているのだ、と。
 話が抽象的になっているので、私はここで一つの具体例をあげてみようと思う。私が一つの時計を見ている光景を想像して考えてみよう。今私が注意が時計の針の動きに注意を向けると、時計の針は「明確なもの」としてとらえられ、数字とかコチコチという音とかは「あいまいなもの」としてとらえられる。しかし、針が動いたということは単なる移行としてうけとられたのではなく、はっきりと焦点の向けられなかった数字のⅠとⅡをばくぜんと見ていることによって、あるいは何十回かの刻む音をかすかに聞いていることによって、見てとられているのである。そして今度は時計の音に注意を向けると、それが「明確なもの」となり、他が「あいまいなもの」になり、同様に知覚され、感じられるのである。
 この例は辺縁となる「あいまいなもの」の最も単純化した例、すなわち事物の知覚にのみ関した例である。ジェイムズの辺縁理論は、それのみならず、事物であれ考えであれ、あるいは時空に関するものであれ、われわれ自身の心的状態のものであれ、われわれの経験におけるあらゆるカテゴリーに適用され、文字通りの多元論的宇宙を存在意味をもった実在的なものとして構成する依りどころとなっている。
(33)そして私の思うに、その驚くべき辺縁理論の特徴の成果として、ジェイムズは「考えと事物とは異質ではない」(34)というようにまでなるのである。
 この考え方が容認されるためには、これまで本章において述べられてきたジェイムズの考え方のみならず、それ以外の考え方をも理解するという作業が必要である。いわばこの考え方は唐突に出されているのではなく、ジェイムズのあらゆる考え方を辺縁にもって、はじめて可能となっているのである。
 だが、辺縁理論の立場からこの考え方はどのように見られているのだろうか。具体的例をあげて説明するのが一番わかりやすいので、ここでも「一枚の絵」をめぐっての論議を展開しよう。まずこの「一枚の絵」という事物の知覚に関して言うと、先程のくりかえしになるが、たとえばそれは額におさめられているとか、壁に掲げられているとかの辺縁をもって知覚されているということになる。しかしわれわれはこの絵に関して、ただそれが見えるがままのものとして見ているわけではなく、たとえばわれわれのそのときのあるなんらかの心的状態のもとに誰が、いつ、どこで、どのようにこの絵を描いたのかについての思いをあいまいな状態でもっているのかもしれないし、あるいはその絵自身が何を訴えようとしているのかをばくぜんと考えつつ見ているのかもしれない。
 これらの状態もまた、辺縁の部分として数えあげられるのである。つまりこの場合、われわれはこの絵を単なる絵としてではなく、絵のもついろいろな背景をも考えているのである。そうなると、われわれがどのような経験のコンテキストにあるかどうかによって、この絵は画用紙に描かれた事物としての絵であるか、何かを主張する考えとしての絵であるか、ということになってくるのである。この例証は一枚の絵が、ある場合には事物としての役割を果たし、別の場合には考えとしての役割を果たしている事実を伝える以外のなにものでもなく、いわば対象の機能性に立脚して、事物と考えの同質性が主張されているにすぎない。しかし、辺縁理論がジェイムズの認識論的な実在論を浮きぼりにする一つの要因になっていることは、このことからもたしかである。

Ⅴ 「it thinks」の世界と「it is there」の世界

 さて、われわれは再び主知主義的態度の放棄によって構成される世界、すなわち「it thinks」の世界についての話に戻ろう。文法的にいえば、it thinksのitはit rainsのitの如く、非人称的主語である。ジェイムズ自身は「it thinks」の世界そのものについては慎重に取り扱い、むしろそれを「thought goes on」
(35)あるいは「thinking of some sort goes on」(36)の世界と言いかえているのであるが、私はやはり「it thinks」の世界といった方がよりジェイムズの真意を伝えていると思う。なぜならば、この場合のitにはthoughtと比べ、一般の人にも実体論的な自我が想定されているとは思われにくいからである。
 私の思うに、このitは実際的には純粋経験そのものを意味していると解釈した方がわかりやすいのではないだろうか。従ってジェイムズの意に即すれば、純粋経験の世界では、ただ「考えが流れている」事実があるだけだということになろう。
 ところでこの純粋経験とは何かという点になると、ジェイムズは他方では次のようにも言う。すなわちそれは、事物であれ考えであれ、「あらゆるものがそこから構成される原始的素材」
(37)であり、主格未分の中立的な特性をもつ「無地で無限定の現実あるいは現存、単純なあれ(that)(38)であり、「現象、所与、すでに眼前にあるもの」(39)であり、従って「それはそこにある(it is there)」(40)としか言われえないものなのである、と。純粋経験に関するこれら二つの事実、これらがまさに同一の事柄としてあるというのは、一体、どういうことなのだろうか。
 われわれにそのような疑念が生じるのは、どうやら、われわれの反省作用が働くからだとジェイムズは考えていたようである。この二つの事実が同一の事柄であるとされる理論的根拠は、ジェイムズにあっては、バークレーのいう如く存在とは知覚されることであるという考え方にあるように思われる。従って「それはそこにある」と言っても知覚されて(あるいは意識されて、また感じられて)あるのである。別の言い方をすれば、それは単にそこにあるだけでなく、必らずわれわれに「報告され、知らされる」
(41)ものとしてあるのである。
 このことは同時にわれわれの心的状態においては、それの内容の覚知がおこるという意味で、知覚され(あるいは意識され、感じられ)ているということを示しているのである。
(42)従ってこういったわれわれの心的状態は、それの「『内容』の論理的相関物」として機能しているにすぎない。「考えが流れていく」とは、その意味ではわれわれの心的状態が推移していく様を言いあらわしたものにすぎない。厳密に言うと、「考え」がそれ自体あって推移するのではない。あくまでも、「そこにあるそれについての考え」であり、その考えが、他方では思考するもの(thinker)のように機能して、一つの個人的なテーマと文脈をもった実際的な統一の体をなしつつ、選択しつつ推移していくのである。それ故に、「it thinks」の世界と「it is there」の世界とは同じ経験的事実の異なる二つの側面であるとジェイムズは考えたのである。(43)
 実際のところ、われわれはジェイムズの提言が主知主義的態度を放棄する中での事柄であるとの限定をいかにうけ入れたとしても、ジェイムズの言うように、かくも割りきれるものだろうか。その点の疑念もたしかに払拭しきれないのも事実である。それこそ主知主義的態度のあらわれだとジェイムズに言われれば、それまでであるが、それならば主知主義的態度とは何か、とあらためて問いただしたくなるであろう。
 この点に関しては、すでに『ジェイムズ経験論の諸問題』であきらかにしているので、ここで詳しく言及することは避けるにしても、本章に関係のある部分で述べるとするならば、ジェイムズは主知主義の作用がものごとの抽象作用あるいは象徴化であると考えていたようである。それに従うと、われわれはその抽象されたものあるいは象徴化されたものを、いわば無条件に想定し、それを素材として、人性を生き世界を考えていることになるのであるが、その結果、かの二元論的な考え方がうまれ、われわれ自身がふりまわされる事態となる。
 そこでジェイムズは抽象化されなければ象徴化もされないありのままの事実、われわれの眼前にあってわれわれとともにある事象そのものに即するという直接的経験を体験すること(これが主知主義的態度を放棄するという中身そのものなのであるが)が実際的な真理を形成すると見なすことによって、主体的実践的な人間観を確立しようと希求したのである。
 ジェイムズの言う純粋経験の考え方が、そのための認識論的貢献をしていることはたしかだと思う。しかしながら、ジェイムズがその純粋経験という根源的なものを解明しえたかどうかの吟味は今後のジェイムズ研究家の課題と言えるだろう。それでもあくまでもその根源的なものに即し、それをありのままに記述しようと呷吟した彼の奮闘的努力は、一種の主観主義に陥ったとの批判をうけたが、そのラジカリズムにおいて、哲学史に一つの波紋をなげかけた功績は認められるべきであろう。

第一章注
(1)これについては、本書第七章の注(1)を参照せよ。
(2)R.B.Perry;The Thought and Character of William James,Atlantic Little, Brown,1935(abbr.T.C.W.J.),Vol.Ⅱp.499
(3)P.U.,p.60
なお第五章「ジェイムズのヘーゲル観」においてあきらかにするように、このテーゼはジェイムズが主知主義批判を行う際の理論的根拠となっているものである。
(4)Prag.,p.46
(5)フッサールは『論理学研究』においては、記述的分析を進めてこられたのは「このすばらしい研究者に負っている」(Husserliana,Bd.XIX/I,p.211)と言い、『ヨーロッパの学問の危機と超越的現象学』においては、「W・ジェイムズは、私の知る限りでは、fringe(辺縁)という名のもとに地平現象に注意を向けた唯一の人であった」(Husserliana,Bd.VI,p.267)と言っている。にもかかわらず、ジェイムズはフッサールに興味を示さなかった。『論理学的研究』の英訳に対して、ジェイムズは快く思わなかったために、それができなくなったという話は有名である。この経緯についてはスピーゲルバーグのThe Phenomenological Movement,Nijihoff,1982のpp.100-101を参照。
(6)B.Wiishire;William James and Phenomenology:a Study of "The Principles of Psychology",AMS Press,1979,p.7
(7)この命名の経緯については、ウィルシャイアー編のWilliam James, The Essential Writingsの序文を参照せよ。尚これに因んで、ジェイムズのEssays in Radical Empiricismの邦訳者加藤茂氏がその訳書名『根本的経験論』の末尾で『甦るジェイムズ』と題する論文を掲載しているので参照しておくべきだろう。
(8)P.U.,p.252
(9)S.P.P.,p.46
(10)この点について『多元的宇宙』の訳者であり論理学者である吉田夏彦氏が同訳書の『あとがき』において、ジェイムズのテーゼとその論証テクニックについて論理学的見地に立って分析されているのは一読に値する。
(11)P.U.,p.106
(12)ここからジェイムズが用語の使用において杜撰であったとは必ずしも言えないだろう。たしかに「名前」と「概念」は概念的にも異なれる二つの用語であるし、ジェイムズもそのことぐらいは十分に知っていたと思う。ジェイムズにとっては、これらの用語の形而上学的差異を云々するよりも、二つのテーゼにおいて、それらが同じ実際的結果をもたらしていること、いいかえれば同じ働きをしていることの方に、彼のビジョンをあきらかにする上で、より関心が向けられていたのだろう。
(13)S.P.P.,p.200
(14)ibid.,p.51
(15)ibid.,p.90
(16)ibid.,p.111
(17)W.B.,p.70
なおここで前者のテーゼに関連して言うと、そこにおいてジェイムズが使う「名前」なるものが、ロックの言うように観念の「記号」であると考えると、それは「概念」と同一のものとして扱われていると見なすこともできるだろう。
(18)S.P.P.,p.57
(19)ibid.,p.107
(20)ibid.,p.48
(21)P.P.,I,p.295
(22)「かたい心」とは事実を第一とする経験論的な考え方を指し示すジェイムズの有名な言葉である。「やわらかい心」がその反対の合理論的な考え方を指し示す。なお、私がなぜこのような言い方をしたかというと、実際のジェイムズはあきらかに「かたい心」と「やわらかい心」の両方をもった人間だからである。
(23)この言葉はvagueの名詞化されたものであるが、内容的にはunarticulate,penumbralなどの名詞化されたものを含んでいると考えてもらいたい。
(24)P.P.,I.p.251
(25)E.B.McGilvary; The 'Fringe' of William James's Psychology,the Basis of Logic,Philosophical Review,Vol.xx No.2,p.144
(26)類似語として、ジェイムズは太陽や月が時としてもつ半影を意味する「包暈halo」という言葉を使うこともある。
(27)P.P.,I.p.258
(28)ibid.,p.254
(29)ibid.,p.224
(30)誤解を避けるために附言するが、二つあるいはそれ以上の「明確なもの」とは異質の素材からできているのではない。ともにそれらは一つの文脈をもった経験の流れの中で明確にされた部分なのである。
(31)W.James;On Some Omissions of Introspective Philosophy,Mind,1884,p.19
(32)M.T.,pp.xii-xiii
(33)この「あいまいなもの」を「われわれの有意的思考(voluntary hinking)の中で考えると一層ややこしくなってくるが、実はそれをときあかすことこそ、ジェイムズの「考えの流れ」を理解する要となっており、且つフッサールがジェイムズを認める根拠を提供しているのである。ジェイムズにとって「考えの流れ」を考える際に重要になってくるのは「考え」におけるtopicとobjectという二つの概念とその関係である。私のコンテキストから言えば、topicとは「明確なもの」であり、objectとはその「明確なもの」と「あいまいなもの」を含んだものである。(但し、それは二つが加算されたものとしてあると言うよりは別の全体として考えられねばならないが。)この問題を敷衍するのに、実際にはジェイムズは「コロンブス」の例をあげているのであるが、先程の「私が一つの時計を見る」の例でいけば、topicとはその都度「明確なもの」となった「私」であり、「時計」であり、「見ること」であるのに対し、objectとはそれぞれのtopicの総合ではなく、「私(が)─一つ(の)─時計(を)─見る」という一つの全体である。ここで「あいまいなもの」が土台となっているという考え方をもう少し考えてみれば、objectはまさに「考え」がそう考えているそのままのものとしてあるわけだが、ハイフンあるいは( )においては、実に多様な「あいまいなもの」が含まれているのである。同じ言葉のobjectであっても、考えが時間を知るべく向けられている場合は、親父の形見の時計であるという「あいまいなもの」は阻害されているし、逆に親父の形見の時計としての思いで向けられている場合は、時間を示しているという「あいまいなもの」はどうでもよくなっている。しかし、いずれの場合においても、この「あいまいなもの」から来ていることは確かである。私はジェイムズのこういった考え方が(正確ではないにしても)フッサールの「ノエマ」の考え方にあたっていたとは、フッサールを知るまでは、また先にあげたウィルシャイアーの本やJ・リンショーテンの『Auf dem Weg zu einer Phänomenologischen Psychologie,Die Psychologie von William James』を読むまでは知らなかった。今また、このようなすぐれた解説書が出ているために、本書がジェイムズのtopic-objectを詳しく述べない従来の私の視座を踏襲した論文になってしまったが、前二者の解説書はジェイムズ研究家には貴重な文献となるだろう。
(34)E.R.E.,p.28
別のところでは、断定的に「もろもろの考えともろもろの事物はその素材に関しては絶対的に同質であり、それらの対立は関係と機能の対立にすぎない」(E.R.E.,p.138)とさえ言っている。
(35)ibid.,p.225
(36)ibid.,p.224
(37)ibid.,p.4
(38)ibid.,p.23
(39)ibid.,p.9
(40)ibid.,p.23
(41)ibid.,p.4
(42)ここでも私は意識、感じ、考えなどをほとんど同義語として使っている。厳密さに欠けると言われればそれまでであるが、これは同じ心的事実に対して言われる場合にはプラグマティックには大して差がないと思うからである。もっとも分析的見解をとる限りたとえば、考えは意識の一つの状態であるとか、考えの感じとの違いは辺縁が働いているかいないかの違いである、とかいう風には説明できるのであるが。
(43)実際は、ジェイムズの考える世界はもっと複相的である。それ故それは「pure experiences think」の世界であり、「pure experiences are there」の世界であると言った方が正しいのかもしれない。

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